ガーナを旅する④ 世界遺産の要塞「ケープコースト城」〜西アフリカの奴隷貿易の歴史〜

2021年7月16日、天気くもり時々小雨。

ガーナの歩き方

5月末から1年ぶりに再開したアフリカ54ヶ国制覇の旅-第5章-。この2ヶ月に及ぶ旅もいよいよ終わりが近づいてきました。ずっとアフリカにいるとやはり新鮮な感覚が麻痺(まひ)してしまうので、2ヶ月ぐらいが私にはちょうど良い感じです。そんな第5章のアフリカ30ヶ国目ガーナ。旅の最後の目的地としてやって来たのは海沿いの町「ケープコースト」です。

③ケープコースト

ケープ・コーストは、ガーナにある都市。2012年の人口は約17万人。首都アクラから165km西に離れたガーナ南部にあり、ギニア湾に面する港湾都市。古くからヨーロッパとの交易で栄え、世界遺産であるケープ・コースト城がある。中央州の州都である。1962年に創立されたケープ・コースト大学があり、学園都市の面を持つ。

Wikipediaより】

ガーナだけでなく西アフリカの歴史において非常に重要な都市となったケープコースト。本日はWikipediaさんの協力のもと(勝手に引用しているだけですが)、少しでもこの町の歩んできた歴史をお届けできればと思います。

大航海時代も中盤になるとアフリカという大陸に豊富な資源があることを知ったヨーロッパ列強はアフリカの地への侵出をスタートしました。その中でも金が産出されるガーナの地は各国が欲しくてたまらないエリア!しかしその中でも船を停めることができるほどの十分な海の深さがあり、波も穏やかなポイントというのは限られてきます。

そんなガーナの沿岸部にあった良港となりうる場所の一つがケープコーストでした。そしてこの地に初めて訪れたのは…

ケープ・コーストは奴隷や金の交易の拠点として、1653年にスウェーデンによって建設された。

Wikipediaより】

このスウェーデンによるケープコーストの町の建設。これが西アフリカ地域で最初のヨーロッパのアフリカ大陸への本格的な侵出でした。そのため、ケープコーストには西アフリカで最初に建てられた教会や学校があります。その後のヨーロッパによる西アフリカの植民地化はここから始まったんです。

そしてこのスウェーデンがケープコーストの海沿いに建設した要塞。こちらがケープコースト城になります!

世界遺産「ケープコースト城」

ケープ・コースト城は、ガーナにある要塞。最初にこの場所へ建設された木造の建造物は、スウェーデン・アフリカ会社のために1653年に建てられ、スウェーデン王カール10世にちなんでカロルスボル (Carolusborg) と名付けられた。後に建物は石を用いて復元された。

Wikipediaより】

このケープコースト城はガーナ国内でも一番と言っていい有名な観光スポットになっています。本日はこのケープコースト城に行ってきました。入場料40セディを払いいざ城の内部へ!ガイドさんの案内のもとじっくりと見学させていただけます。

城砦は1663年にデンマークにより占領されたが、1年後の1664年にはさらにイングランドによって占領された。イギリスはこの地を黄金海岸交易の拠点として整備し、以後200年以上にわたってケープ・コーストはこの地方のイギリスの拠点であり続けた。

Wikipediaより】

金の産出エリアということで覇権争いは当然必至だった黄金海岸。その最終的な勝者となったのがイギリスです。フランスがそのほとんどを領有していた西アフリカでこのガーナをイギリスが譲らなかった理由がもうわかるかと思います。

そして時代の流れの中でヨーロッパの需要は金から人へと移っていきます。大航海時代が終わりを迎えると始まったヨーロッパ列強による新大陸アメリカでの大規模農業。その農作業に必要不可欠なのが人的労働力です。ガーナの交易拠点であったケープコースト城。数えきれない人々が奴隷としてアメリカへと送られました。

ここで一つ覚えておくべきポイントを。アフリカの人々を捕まえて奴隷にするのはヨーロッパの人々、ではありません。アフリカの人々を捕まえるのはアフリカの人々自身なんです。日本の歴史と同様にアフリカ社会にも生まれた身分の差。そのトップに君臨するのは王であり、西アフリカの地には王国がいくつも存在していました。その王国同士の争いももちろんある中で、やはり手に入れたいのは武器です。ヨーロッパ式の最新の武器を手に入れることは国力強化につながります。そしてその武器を手に入れるために差し出すのが”人”でした。アフリカ人とヨーロッパ人による奴隷の売買が行われたPALAVER HALLと呼ばれる部屋。当然ですが奴隷として売られる人々はここに来るまで永遠と歩き続けさせられてきたわけです。

ヨーロッパ人によって買われた奴隷はすぐに新大陸には運ばれません。奴隷の人々を収容する場所に監禁させられます。

小さな3つの穴から太陽の光が入るだけの洞窟(どうくつ)。そこに収監された100人以上の人々。死なないように必要最低限の水と食料は与えられますが、ここで食べて、寝て、排泄(はいせつ)もします。劣悪(れつあく)な環境なので病気も蔓延(まんえん)し、ここで亡くなる人も少なくなかったとのこと。

やがて来る貿易船の出港の日。厳しい環境の中を生き抜いた人々だけが暗い監獄から出て太陽の光を浴びることができます。しかしそれも束の間。

帰らずの門

Door of No Return。日本語では『帰らずの門』と和訳される扉をくぐり、再び船の暗い部屋に閉じ込められます。次に外に出るのは新大陸に到着するその日です。そこまでにも船酔いや病気で亡くなる人はいます。本当に耐えて耐えて耐え抜いた人だけが踏むことができる新大陸の大地。もちろんそこから始まるのは過酷な労働の日々でした。が、それでも生き抜いた人たちがいて、そのおかげでつながった命があって…。奴隷の人々の生きる希望はいったい何だったのか。全く想像ができません。

訪れる前は建物の美しさに目がいきましたが、歴史を知ると全く違って見えるケープコースト城。今の自分にできることは『知る』そして『考える』ということだけです。歴史を知って今を考える。

ヨーロッパの策略により人類の欲が絡み合って生み出された奴隷貿易(三角貿易)という負のスパイラル。対して現代では『人工知能によって人の仕事が奪われる』なんていうことを目にすることがあります。人がいらない時代の訪れによって”奴隷”はもう完全に過去のものになるかもしれません。しかしそこに人はいるんです。人類の欲によって次に引き起こされることはいったい何なのか。まぁこんな風に書いていますが私の口癖は「なんとかなる」なのであまり深くは考えていません。が、考えることはやめたくないです。

さぁ、重い話をしましたがやはりアフリカを知る!という観点からは歴史にしっかりと向き合うことも大切です。ただ、悲しい歴史があるケープコースト城ですが、その建物の美しさに感動する自分もいました。それもまた一つこのケープコーストを知る上で感じるごく自然な感覚なのだと思います。

灯台からの景色

そんなケープコーストの町並み。先ほどからやけに高い位置からの写真があるなぁと思われた方もいるかもしれません。町を歩いていても、ケープコースト城内部からもチラチラ見えるこちらの白い建物。この山の上にもかつて要塞があったそうで、その灯台が今も残っています。気になったので行ってみると

なんと上れちゃうこちらの灯台。かなりサビて穴も空いている階段を上がって、高所恐怖症だとかなり怖いレベルの階段をさらに上がっていくと

じゃん!!ケープコーストの景色が360度一望できます!!まさか上れるとは思ってなかったのでラッキーです。

そしてこのケープコーストの町並みは上から見てこそ!!最初にこの町を建設したのがスウェーデンだからか明るい色使いの建物がチラホラと見えるのが印象的です。町がそこまで大きくないので歩いて十分に回れるのも良いところ。

それにしても今日は久しぶりに涼しかった~。赤道近くのギニア湾に面したケープコーストですが、くもっていて海風もあったからか気持ちよく散策することができました。この気候もケープコーストが拠点となった一つの理由かもしれません!さぁ、本日はラストもWikipediaの引用で締めたいと思います。ケープコーストの歴史を知り、ますますアフリカに興味をもった1日でした!

1821年に海岸部の英領の砦を統合してイギリス領ゴールド・コーストが成立すると、ケープ・コーストはその首都となり、総督が置かれた。ケープ・コーストにはアシャンティ王国の使節や商人がたびたび来訪し、地方の中心として繁栄したが、1877年に首都はアクラに移され、以後成長は鈍化した。ケープコースト城は1979年にユネスコの世界遺産「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群」の一つとして登録されている。

Wikipediaより】

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