スーダンを旅する⑦ 読むだけでざっくりわかるスーダンの歴史Part2 〜世界で一番新しい独立国家「南スーダン」〜

2022年5月5日、天気晴れ。(※2023年4月更新)

スーダンに来てから一週間が経ち、ようやく暑さにも慣れてきたなと感じる今日この頃。
朝からお腹に何か食べ物を入れることも大事な暑さ対策なんだということを身をもって実感しているところです。

ただそうは言っても暑いは暑い。
今日は珍しく最初のミニバスがつかまらずに15分ぐらい太陽の下で待ちました。
照りつける日差しと吹き付ける熱風のダブルパンチがまぁ効きます。
だからこそバスが減速した瞬間、パブロフの犬ばりにこの暑さから解放される幸福感が脳内にブワーッと広がるんです。
この快感のための待ち時間だったのかもしれないとさえ思えるから面白いもの。

暑い日に暑い紅茶が飲みたいと思えるようになった自分の変化も大人の階段をのぼった的な喜びがあります。
見つけたのは木陰のイイ感じの場所に構えられたお店。
ということで本日は美味しいスーダンの紅茶を飲みながら、昨日に引き続き歴史の話をしたいと思います。

スーダンの歴史 Part2

イギリスの間接統治(一部の民族に権限を与えて国を治めさせる植民地支配の方法)によって生じたスーダン国内での問題は大きく2つ。

  1. イギリスから権限を与えられた北部の民族(アラブ系)による自分たちに都合の良い政治に対する南部の民族(黒人系)の反政府運動が勃発。
    17年間の内戦が一度落ち着いたものの、1983年から再び内戦状態へ。
  2. スーダンを一つにまとめることのできる真の実力をもった政治家が現れないため、度々起こる軍部によるクーデター。
    リーダーがコロコロと変わることでさらに政治は不安定に。

1956年にイギリスから独立を果たすも、スーダンはそこから混乱の一途をたどることになります。
イギリスの間接統治の爪痕(つめあと)は本当に凄まじいです。

23年間続いた内戦

この状況の中1989年にクーデターによって立ち上がった人物がオマル・アル=バシールです。
首相のみならず大統領も兼任する形で事実上スーダンの全権を得たバシル大統領。
ここから彼の独裁軍事政権がなんと
「30年」
続きます!
・・・歴史と聞くと遠い過去の話を想像するかもしれませんが、これは正に今につながる現代の話なんです。

チカラでねじ伏(ふ)せて国を治めたバシル大統領。
キリスト教徒である南部の人々にイスラム教への改宗を強制することで一つの国を作り上げようという強引な手段に出ます。
そして当然それに対して南部の人々は反対運動を起こすわけですが、これにも徹底的にチカラで応戦し、内戦状態はずっと続きます。
もちろんこのような状況は北も南も望んでいるわけではないので和平交渉を試みますが上手くいかず。
結果1983年に始まった二度目の内戦が終わったのは2005年。
23年という非常に長い間続いた内戦により数えきれない命が犠牲になりました。

南北和平協定成立

「和平協定が成立したことでこれにて全てが解決!」
とはなりません。
長引いた内戦やアメリカの経済制裁により、この時のスーダンの経済は破綻。
一体ここからどう立て直せば良いのか。
この状況を大きく変えたのが外国からの人とお金の流れでした。
南北が和平を結び治安が回復したことで、外国からの資本が大量に入ってくることになります。
しかし、ここで疑問が一つ。
なぜわざわざ砂漠の国スーダンに外国は投資をするのか?

旅の途中でも見かけた砂漠の中に広がる緑の景色。
実は
「アフリカの食糧バスケット」
の異名を持つスーダン。
世界で唯一2つのナイル川が流れるこの国には
「ナイルの賜物」
という言葉の通り、農業に非常に適した肥沃(ひよく)な土地が広がります。

さらにもう一つ。
この国の南部には広大な
「油田」
があり、石油も産出するんです。
スーダン北部が内戦をしてまで南部地域を自国として取り入れておきたかった理由は正にこの石油の権利を手放したくなかったから。
世界中の国々が喉(のど)から手が出るほど欲しい資源がこのスーダンにはあるんです。

『豊かな穀倉地帯と石油』
の2つを求めて世界各国はこの国に莫大(ばくだい)な投資をします。
その影響でスーダンは急激な経済成長を遂げました。
例えば以前は船で渡るしかなかったナイル川。
現在はいくつもの橋が川に架(か)かり、首都ハルツームの交通を支え物流を生み出していますが、この橋の建設は「中国」の出資により進められたもの。

そして先日ご紹介したハルツームのランドマークであるコリンシアホテル。
こちらは北アフリカの国「リビア」の資本のホテルになります。
完成したのは2007年ということで、これも和平交渉成立後の出来事。

首都ハルツームの街並みや、各地方へ向かう道路のコンディションの良さなどにも現れている外国資本の影響。
その様子をパッと見ただけではこの国がおよそ50年に渡る内戦をしていたという事実に気づくことはまずありません。
治安が回復したことで外国が次々と参入し、経済を一気に発展させたスーダン。
しかし、この経済成長はやがて終わりを迎えます。

南スーダン独立

2011年7月9日。
南部の人々による住民投票により98%の支持を得て
「南スーダン」
がスーダンから分離独立を果たしました。
半世紀に渡り多くの命の犠牲を払いながら南部の人々が求めてきた
「自分たちの国」
をついに手に入れた歴史的な瞬間です。
一方、この独立によってスーダンが失ったもの。
それは国の最重要資産であった
「石油」
です。
国の収入はものすごい勢いで縮小し、経済は一気に低迷。
スーダンは再び苦しい状況に追い込まれます。

そこからせめて南スーダンだけでも安定した国になってくれればよかったのですが、実際はその真逆。
国のトップは権力を求め、脅(おびや)かされそうになれば独裁にはしり。
それが国内の民族対立を生み出すことになり・・・
結果、独立を果たした南スーダンも内戦状態になってしまったのです。
そしていつも被害を受けるのはその国で暮らす人々。
今も多くの南スーダンの人々が難民として避難生活をおくっています。


そんな南スーダンですが
「みなさんどんな国だと思いますか?」
砂漠の国スーダンの南にあるんだから
「もっとすごいカラカラの大地が広がる国なんじゃないかな!」
というのが私の想像でした。
おそらく同じようなイメージを持っている方が多いかと思います。
しかし、これが実際に見たらまぁ~ビックリ!
・・・実は私、南スーダンをこの目で見てしまったんです!!

話はスーダンに入国した日に遡(さかのぼ)ります。
ケニアからのフライトでスーダンにやって来たわけですが、その途中に一度飛行機が南スーダンに着陸したんです。
アフリカではよくある経由便。
着陸態勢の窓から見えたのは

まさかの緑が広がる南スーダンの首都ジュバの景色でした。
「ウソだろ~!」
「これが南スーダン?」
「全然イメージと違うじゃないか~い!!」
と大興奮。
しっかりとした街並みも確認できたところで、こうなってくるともっと知りたい南スーダン。

南スーダンのビザ情報

2023年現在の外務省の海外安全ホームページの危険情報では国の大部分がレベル4(退避勧告)であるものの、首都ジュバだけはレベル3なんです。
・・・といっても
「その国・地域への渡航は、どのような目的であれ止めてください」
ですがね。
でもこの緑とこの街の感じ。
2020年に暫定政権が誕生したことで今は治安も少し安定している状態のはずということで・・・行きたい!
「いや、行く!!」

と思いたったらすぐ行動です。
渡航にはビザが必要な南スーダン。
さっそくスーダンにある南スーダン大使館を探して行ってきました。
ラマダンの関係で担当の方はいませんでしたが、警備のお兄さんが教えてくれたビザ申請に必要なものはたった2つ!

  • ビザ申請費用200USドル
  • 日本大使館の承認書

そしたらもう行くしかありません、在スーダン日本大使館!
こちらも同じく休館日だったのですが、たまたまいらっしゃった職員の方に事情を説明して承認書を発行していただきたいと伝えました。

「現在南スーダンは渡航中止勧告、退避勧告が出ているので、大使館として渡航を承認することはできません。」
ですよね~。
わかってました。
でも、念のために確認をさせていただきたかったんです。
結論、南スーダンには行けません。
さらに南スーダン大使館は現在日本にはありません。
つまり今日本人の旅人が南スーダンに渡航することは不可能だということがわかりました。
いつか南スーダンの治安が世界に誇れるほど安定するその日を待ちたいと思います。
必ず行くぞ、南スーダン!!

ということでアフリカ33ヶ国目は南スーダンにはなりませんでしたが、もう次の渡航に向けての準備は着々と進んでいます。
スーダン旅も残すところあと2日ですが、まだまだ新しい発見がたくさんあるのが楽しいところ。
今日は道端でアフリカといえばのハイビスカスジュースに出会いました。
アラビア語では「カルカデ」というこのドリンクは暑い時に飲むともう最高!
この一杯はお兄さんが奢ってくれました。
シュクラン!!

そして後日わかったこと。
なんと取得不可能だと思われていた南スーダンのビザが
オンラインで取得できる』
ことが判明しました!
行くぞ、南スーダン!!

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